旧石器時代
                               (約1万3000年前より古い時代)

横峯遺跡
(よこみね)
位 置  南種子町島間
発掘年  1992年(平成4年),1996年(平成8年)〜1998年(平成10年)
周囲の状況  西海岸から約2km内陸部に向かい,約20km離れた屋久島を望む標高約120mの台地上に位置する。
出土品など  鹿児島県では最古級の遺跡です。
 この遺跡からは,縄文時代早期や草創期の土器・石器類が多数出土したほか,旧石器時代では3時期の文化層が発見されました。中でも,約3万1千年前の調理場と思われる「礫群」(れきぐん:小さな石の集まり)は,現段階で日本最古のものであるとともにきわめて重要な遺跡として注目を集めました。
(南種子町教育委員会 2000.3 )
立切遺跡
(たちきり)
位 置  中種子町坂井
発掘年  1997年(平成9年),1999年(平成11年)〜2001年(平成13年)
出土品など  鹿児島県では最も古い遺跡で,約3万年前だと考えられています。
 たき火あと9か所と礫群(れきぐん)2基,貯蔵穴(ちょぞうけつ)と思われる土坑(どこう)1基がまとまってみつかりました。3万年より古い時代の遺跡で,これだけの遺構がまとまって発掘されたのは大発見でしたが,これらの遺構といっしょに見つかった石器がもっと大事なことを想像させてくれました。
 それは,ちょっと見ただけでは普通の河原石(かわらいし)のように見える石ですが,よく見ると次の時代(縄文時代)の磨石(すりいし)や石皿(いしざら)と同じような特徴を持っていたのです。磨石と石皿はドングリを磨りつぶして,粉にする道具です。立切遺跡の人たちも縄文人と同じようにドングリを食べていたのではないでしょうか。そして,貯蔵用の穴を掘って,秋にたくさんとれるドングリを貯(たくわ)えていたのかもしれません。
(「縄文の世界−上野原遺跡のなぞ−」鹿児島県育英財団より引用)
磨石,石皿 土坑
中種子町教育委員会写真提供
上場遺跡
(うわば)


(出水市歴史民俗資料館『展示資料解説シリーズ』)
位 置  出水市上大川内
発掘年  1965年(昭和40年)池水寛治氏によって発見され,翌年3月第1回調査が行われて以来昭和49年までに5回にわたって発掘調査が行われました。(「鹿児島県埋蔵文化財の知識」鹿児島県教育委員会 1986)
周囲の状況  熊本県との県境に近い上場高原,上場小学校の南側の丘の先端部にあります。(「鹿児島県埋蔵文化財の知識」鹿児島県教育委員会 1986)
出土品など  出水市の東北部で,この辺りには旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡がたくさん見つかっています。遺跡の地層は上から順に第1層から第6層まで分けられ,第5層を除くすべての層から遺物が発見されました。
 第5層の黄褐色(おうかっしょく)の火山灰層は,今から約2万4000年前に姶良カルデラのばく発によって噴(ふ)き出されたシラスと考えられており,このシラスをはさんで上下から旧石器時代の石器が発見されたことは,その年代を調べるのに貴重な発見となりました。
 また,細石器とともにいちばん古い時期の土器とされる爪形文土器(つめがたもんどき)がみつかったり,上場技法と呼ばれる独特の石器製作技法などもわかりました。
 さらに,わが国ではじめて旧石器時代の住居跡が発見されて有名になりました。住居跡は竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)で2基みつかっています。
 1号住居跡は,ほぼ円形に近い直径3.5m×3.7m,深さ70cmほどの半地下式とも考えられるものです。
 近くには火をたいた跡もみつかっています。
 これらの成果によって,上場遺跡はわが国の旧石器時代を考えるための重要な遺跡となっています。
(「鹿児島県埋蔵文化財の知識」鹿児島県教育委員会 1986)
帖地遺跡
(ちょうち)
位 置  喜入町生見
発掘年  1995年(平成7年)5月〜1998年(平成10年)6月
周囲の状況  標高70〜100mの南向きに傾斜する台地上に位置している。遺跡の北側を小河川が流れており,その方向は比較的急傾斜となっている。それに対して南側は,比較的なだらかな地形となっている。
出土品など  調査の結果,シラスの下から,噴火直前の時期のナイフ型石器文化の存在が明らかになった。さらに,縄文時代草創期初頭の細石刃(さいせきじん)製作を主体とする文化に,石やり・局部磨製石斧(ませいせきふ)・石鏃(せきぞく)に土器が一緒に出土した。このことは,日本の縄文時代がどのような形ではじまったかを知る重要な手がかりとして注目を集めた。
(喜入町教育委員会 )
水迫遺跡
(みずさこ)
位 置  指宿市西方
発掘年  1999年(平成11年)指宿市教育委員会が発掘調査
周囲の状況  標高約130mの丘陵(きゅうりょう:起伏のなだらかな低い山地)中腹の平坦地(へいたんち)に所在する。
出土品など  竪穴(たてあな)住居跡や道跡・炉の存在が指摘され,定住生活遺跡と判断し,「動物を追って食を得る人々が,家をつくり,炉のたき火を囲んでいた」「社会を営む原型がみれる」とされるが,調査継続中である。
 (「教科書にのらない鹿児島の遺跡51」埋蔵文化財センター)
仁田尾遺跡
(にたお)
位 置  松元町石谷
発掘年  1991年(平成3年)に「どの範囲に広がっているか」「どのような時代のものがあるか」などを調べるための調査が行われました。その後,1993年(平成5年)から調査が行われました。
周囲の状況  東と西側を谷に挟(はさ)まれた狭(せま)い台地上に立地しています。東の谷から流れ出す川は吹上浜へそそぐ分水嶺(ぶんすいれい)の位置で,湧水(ゆうすい)のある谷を両側にもつ良好な環境の地にあります。
(分水嶺:水の流れが分かれるみね)
出土品など  仁田尾遺跡では,細石刃(さいせきじん)文化の石器などが多数出土した。石器には細石刃の他掻器(そうき)・削器(さっき)・打製石斧(せきふ)・礫器(れっき)・磨石(すりいし)などがあり,また石器を作ったときの石のカケラ(剥片(はくへん))も多量に発見されている。これらの遺物は広い範囲に万遍(まんべん)なく出土するのではなく,直径数メートルの範囲に集中しており,このような遺物が集中している区域をユニットと呼んでいる。つまり,石器や剥片が集中して発見されるブロックは,それが石器製作の場所であったことを示している。普通の旧石器時代遺跡では,ブロックは数カ所発見されるが,仁田尾遺跡では五十カ所を超えるブロックが発見されており,遺物総数も十万点以上であることから大規模な石器製作所であったと考えられる。そのため,日本最大級の細石刃文化遺跡として注目されている。
 また,仁田尾遺跡では16基の落とし穴が発見された。
(「教科書にのらない鹿児島の遺跡 47」 県立埋蔵文化財センター)
上空から見た遺跡 落とし穴 横断面