(縄文時代後期:約4000年前〜約3000年前)

 ここでは,次のテーマで調べることができる。

他地区との交流 埋葬


縄文時代後期
他地区との交流
 加治木町の干迫遺跡(ほしざこいせき:約3500年前)からは,表面に朱(しゅ)が塗(ぬ)られた注口土器(ちゅうこうどき)と呼ばれる急須(きゅうす)型の土器が発見された。この土器は,その形や文様から,関東地方の影響を受けて,近畿(きんき)地方及びその周辺地域で作られた土器であることが分かった。
 そのほか干迫遺跡では,左の図のように様々な地域の土器が発掘されており,いろんな地域と交流があったことが分かっている。
(『教科書にのらない鹿児島の遺跡34』県立埋蔵文化財センター)
 また,大口市の並木遺跡(なみきいせき)から出土した土器には,粘土の中に,滑石(かっせき)というやわらかい石の粉が混ぜたものが多く見られる。この滑石は,九州では長崎県の一部でしか産出しないものである。
(『教科書にのらない鹿児島の遺跡35』県立埋蔵文化財センター)
 これらのものは,どのような経路でこの遺跡までたどりついたのだろうか。
干迫遺跡から出土した土器
(『縄文の世界』財団法人鹿児島県育英財団)

 縄文時代の死んだ人は,地面を掘って大切に埋葬(まいそう)されていたことが分かっている。
 左の写真は,垂水市の柊原貝塚(くぬぎばるかいづか)から発掘された縄文人の人骨である。このように,ひざを曲げたかっこうで埋葬する方法を屈葬(くっそう)と呼んでいる。縄文時代は,この屈葬が一般的だったが手足を伸ばした伸展葬(しんてんそう)も行われていた。
 縄文時代の終わりごろになると,死んだ子どもを土器に入れて埋葬した跡も見られるようになる。
(『縄文の世界』財団法人鹿児島県育英財団)
屈葬された人骨
(垂水市教育委員会)