校歌を聴く

 

 

郷里開校と交友に心込め            鶴田 正義(校歌の作詞者)

1997.6.19南日本新聞に掲載されたものです)

鹿児島市の南端、平川町に県立錦江湾高校が建てられたのは、昭和四十六年の春であった。あんな辺鄙なところにという不安感のある半面、自分の郷里に高校ができるという誇らしい思いが交錯していた。

四月開校を前に職員が発表され、校長には県教委指導課長の松山国男氏が任命された。松山氏は私の中学時代の同窓で、短歌や俳句をたしなむ文人としての交友もあったので、彼が校長になることに深い親近感を覚えた。

 開校間もない六月某日、突然彼からぜひ逢いたいと電話があった。さて、来意によると、学校は始まったがまだ校歌ができていない。職員や生徒、父兄に呼びかけて、集まった歌詞の試案を国語の先生方と吟味してみたが、満足すぺきものがない。思案の結果、歌人である君にぜひ考えてみてくれないか、ということであった。

 余りの突然な相談に驚いた。校歌を作るのはむろん初めてのことで、とにかく荷が重すぎると思った。校歌といえば、その学校が続く限り歌い継がれるし、同窓会のときなど、何よりまずみんなに歌われる。「暫く考えさせてくれ」と言うより他なかった。彼は「とにかく学校を見てくれないか」と言って、その日時を約して別れた。

 数日たって、新しい学校を訪れた。平川駅から少し山手の小高いところに、瀟洒な校舎が建っている。その屋上に案内されたとき、私は声をあげんぱかりに驚いた。郷里のことで、大抵の場所は知っているつもりだったが、銅江湾と桜島を箱庭にして展開する壮大な景観に、しばし佇ちつくしていた。この感激を何とかまとめてみようと、ひそかに思った。

 幸い、高校には三つの校訓が決まっていた。「自律創造」「向学求真」「誠実協調」である。この三つの校訓を骨子として、これに肉付けしようと、一応の構想がまとまった。

 それから二週間もたったであろうか。草案を届けたところ、ほとんど無条件で受け入れられた。精魂を傾けて作った後のさわやかさの中に、大きな重荷がおりた気持ちであった。校歌は〈国果つる薩摩のまほら 錦江の水洋々と〉に始まり、三節から成っている。

 当時鹿大教授だった藤島昌寿氏の曲が付いて、校歌発表会があったのは、その年の十一月十一日であった。生徒諸君の高らかに唱和する声をじっと聞きながら、何か熱いものがこみ上げてきた。初代校長を務めた松山氏は平成三年、多くの人に惜しまれながら急逝した。友人代表として霊前に弔辞を読みながら、あらためて校歌作詞の時のことが蘇ってきた。