本校の創設者は,山形県出身の全盲の青年,南雲總次郎氏である。
氏は16歳のとき,友人が誤って発砲した散弾を顔面に受けて失明した。
米沢で鍼灸の技術を身につけたがそれにあきたらず,単身上京して東京盲亜学校に学んだ。
明治32年12月,求めに応じて鹿児島伝春病院のマッサージ師として着任した。
「東京からやって来たマッサージ師は,盲人でも読める点字という便利なものを知っているそうだ。」
という評判がたって,次々に盲人が氏のもとを訪れ,教えをこうた。
初めは院長の了解を得て,勤務のかたわら講習会を開いたが,
「点字はもちろんであるがマッサージの技術も教えてほしい。」
という希望が多かった。
恩師から,
「鹿児島に行ったら,盲人の教育,指導もやってほしい。」
と言われていたことでもあり,
「勤務しながらの指導では徹底しないし病院にも迷惑をかけることになる。」
と判断し,退職して盲学校を設立する決意を固めた。
財産とてない氏は,弱視生の門弟を道案内に,一面識もない鹿児島市の有志の家を歴訪し,苦心を重ねて何とか設立資金を調達できた。
山之口町にある民家を借り,私立の「鹿児島慈恵盲亜学院」の看板を掲げ,職員4名生徒8名(盲部5名,聾唖部3名)で開校式を挙行した。
これが本校の前身である(以来この日を創立記念日として,記念式典と記念行事を催している)。
時に明治36年2月2日。初代校長南雲總次郎氏は,このとき25歳であった。
当時は障害者に対する認識が低く,障害者教育に対する理解もほとんどなかったために,発足はしたものの,学校の維持費を捻出するための苦労はその後も長く続き,寄付募集,慈善演芸会,慈善商という日用雑貨の販売など種々な方法で調達に奔走した。
しかし,校舎の家賃すら払えず,一時閉鎖に追い込まれたり,移転するなど困難な日々の連続であった。
開校以来19年,経営に苦労した甲斐があって,やっと学校の基礎も固まった大正10年4月,南雲氏は一身上の都合で退職し,父の移転先の北海道に渡った。
翌大正11年には旭川盲亜学校を創立し,初代校長として昭和29年までの33年間校長を勤めた。
昭和56年2月2日,卒業生,保護者,旧現職員,その他の浄財によって,本校校庭に「亡師亡友慰霊の碑」(碑文は点字)とともに「南雲總次郎先生顕彰の碑」が建設され,除幕式が挙行された。
また,平成15年2月2日には100周年を迎えた。
それに先立ち,平成14年10月27日に「創立百周年記念」の式典,演奏会,講演会,祝賀会などの事業が実施された。

碑文の書は第10代校長 中元定二(昭和54年4月から昭和57年3月)による
