国分高校近辺の歴史的石碑等について

公開日 2023年03月22日

国分高校は舞鶴城跡地にある高校で,この地域の古(いにしえ)を感じさせる場所です。

国分高校近辺には,歴史的な資産として,次のようなものがあります。

それぞれをご紹介いたします。

散策してみてはいかがでしょうか?

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国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第1回 国分高校周辺の歴史散策

与謝野晶子・寛(鉄幹)の歌碑

 ・・・国分高校の正門脇に建てられています。

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むら雨と山のあらしの末みせて

 川波をどる国分郷かな    晶子

 

今日あへる国分の町のをとめたち

 皆静かなりこの浦のごと   寛

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 なぜ,与謝野夫妻が国分を訪れたのか?東京で活躍する2人に,川内出身で東京で「改造社」という出版社を経営していたジャーナリスト山本実彦の誘いがあったようです。歌集を発行することを目的として実彦が鹿児島に案内したようです。

 このときは,夫妻は山本彦実の道案内のもと鹿児島市を拠点として霧島,指宿,川内,宮之城,出水などを訪れ,多くの歌を詠んでいます。昭和4年7月22日から以下のような行動をし,国分を訪れたようです。

 

7月22日  夕方鹿児島着(薩摩屋別荘泊)

7月23日  鹿児島市内(南州神社・修盛館(尚古集成館)・礒庭園など)を経て隼人町鹿児島神宮・霧島温泉(栄之尾温泉泊)

7月24日~26日  霧島滞在にて高千穂の峯・大波の池などを探勝

7月27日  妙見温泉・霧島神社・国分町(現霧島市)の女学校にて講演 鹿児島泊

以上,

http://www5.synapse.ne.jp/furusato/sub5yosanofusai.html

のサイトを参考にしました。

 

7月27日に国分高等女学校(本校の前身)で講演を行ったという記録が残されています。

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第2回 国分高校周辺の歴史散策

与謝野晶子・寛(鉄幹)の講演記念写真

 ・・・本校校長室に飾られています。

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第1回で書いたとおり,与謝野晶子・鉄幹夫妻は,国分で記念講演をされました。

7月27日  妙見温泉・霧島神社・国分町(現霧島市)の女学校にて講演 鹿児島泊という記録が残されていますが,校長室には記念写真があります。

 

 昭和4年7月27日 国分町役場前 との記録です。

おそらく本校での記念講演を終え,役場に移動して記念撮影をしたものと思われます。

 

前列 右二人目 中俣政義 国分高女第四代校長

前列 右三人目 石塚彦一 国分町長

前列 左三人目 与謝野鉄幹 氏

前列 左二人目 与謝野晶子 女史

 

昭和初期の歴史を感じさせる写真です。鉄幹氏のハイカラな様子と寄り添う晶子女史の姿が印象的です。

前列4人のお名前しか判明しておらず,後列の方などはひょっとすると本校の職員や役場職員かもしれません。

  


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第3回 国分高校周辺の歴史散策

桜蔭碑

 ・・・本校体育館前に建てられています。

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 本校の前身は,国分高等女学校でした。

簡単に学校要覧から経緯を書くと,

 

○明治43年   国分村立女子実業補習学校創設

○大正2年4月 姶良郡立実科高等女学校 開校式

○大正9年9月 組織変更 姶良郡高等女学校と改称

○大正12年4月 県立移管し,鹿児島県立国分高等女学校と改称

○昭和23年3月 学制改革により,鹿児島県立国分高等学校と改称

 

本校同窓会は,学校要覧によると,

本会は国分高等学校同窓会(桜蔭会)(おういんかい)と称し,高女時代の卒業生3600人余,高校になってからの卒業生20000人余,合計24000人余の会員が社会の各分野で活躍し,会員相互の親睦や母校の後輩への激励・援助にも積極的に活躍している。

とあります。

 

同窓会の皆様のご協力で,創立70周年記念碑として,1983年(昭和58年)10月20日に女子高生の銅像,桜蔭碑が建てられています。

この時の同窓会(桜蔭会)会長 下村昭仁様,制作 楠元香代子様(いずれも本校のOB,OG)のお名前が,像の裏側のプレートに書かれています。

 

鹿児島県立国分高等学校 沿革

一九一三 この地に姶良郡立実科高等女学校創立さる

一九二〇 姶良郡高等女学校

一九二三 鹿児島県立国分高等女学校

一九四八 鹿児島県立国分高等学校

一九六一 母校この地を離れ東隣に移転する

一九八三 母校創立七十周年を記念してこの碑を建てる

一九八三年十月二十日

国分高等学校同窓会(桜蔭会)会長 下村昭仁

 制作 楠元香代子

 

 

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第4回 国分高校周辺の歴史散策

伊勢神社

 ・・・新校舎と新芸術棟との間の体育館横の道は参道になっており,伊勢神社へ続いています。

 

立派な石灯篭が左右に建ち,現在鹿児島交通の「国分高校前」バス停があります。

その後ろに,伊勢神社の立派な石碑も建てられています。

この学校前の通り(東西)は,「池之馬場通り(いけんばばどおり)」と呼ばれており,その歴史を刻む碑が建てられています。

 

一方,伊勢神社の参道にあたる,池之馬場通りと直角に交わる(南北)のが,「東馬場通り(ひがっばばどおり)」です。同じく,その歴史を碑に残しています。

 

東馬場通りから,左右に広がる池之馬場通りと正面に伊勢神社の石灯籠を見る(つまり南側から北を見る方向)のが,新校舎・新芸術棟が良く見える方向です。新校舎と新校舎と新芸術棟をつなぐ空中通路の工事の様子がうかがえます。

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  ↑ちょっと前の工事中  覆いが取れました!→

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国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第5回 国分高校周辺の歴史散策

健児の碑

 ・・・新校舎前の大きな碑です。

 

 碑には次のように書かれています。

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健児之碑

 国分郷の有志等によって,質実剛健の気風の育成と高揚のため創設された舞鶴青年学舎は,夜間に青少年の学習・剣道修練や精神鍛錬を行う場であった。この学舎教育は,明治以前の郷中教育の精神を受け継いだ薩摩独特の教育制度であったといえる。

 この碑は,祖国の繁栄を願いつつ不幸にも不帰の客となった同志友人を慰霊するため,大正元年八月に舞鶴青年学舎によって建てられた。五百余の御霊が祀ってあり,毎年七月三十日には健児之碑を守る会によって追悼会が開かれている。

  舞鶴青年学舎の歌 林重義作詞    追悼歌 石塚月亭作詞

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横には,永代常夜燈と彫られた灯籠も建てられている立派なものです。

正面からは,健児之碑  亡友芳名 の文字が見えます。

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国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第6回 国分高校周辺の歴史散策

孝子之碑

(元村長 山元嘉右衛門翁)

 

この碑は,市内府中の長崎金左エ門(明治四年生まれ)の孝道をたたえるため大正六年に建てられた。

 金左エ門は,貧しい家に生まれ,母と共に働き,病身の父を支えてきたが,十四才の時,母を失い,それからは一人で父の看護を行った。明治三十七年,父に孝養の限りを尽くした行いで国から緑綬褒章の栄を受けた。

 この碑の除幕式の時に歌われた歌は清水の木佐木椋園作詞で,毎年,金左エ門を招き,国分,向花,上小川の三校児童が,この碑の前で歌ったとのことである。

   孝子の碑の歌(木佐木椋園作詞)

 

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霧島市の広報誌に資料がありました。

 

https://mykoho.jp/article/鹿児島県霧島市/広報きりしま-2022年5月上旬号/【郷土史への扉】親を敬う孝行者-孝子こうし/

 

 

【郷土史への扉】親を敬う孝行者 孝子(こうし)

 

2022.05.10 鹿児島県霧島市

国宝となった霧島神宮本殿の壁面には、中国において孝行を尽くした人物たちを描いた、二十四孝の絵が描かれています。孝行なる行いは、現在でも美徳とされていますが、昔は親孝行をした子ども(孝子(こうし))は表彰される存在でした。

 

◆歌われる孝子

明治4(1871)年生まれの国分府中の長崎金左エ門は、病身の父の看護をしながら孝行を尽くし、国から褒章を受けました。これをたたえ、国分小学校南側に孝子之碑が建てられました。その際、除幕式歌が作られ、毎年国分・向花・上小川小学校の児童たちが歌っていたそうです。その一部を紹介します。

 

一 舞鶴城下千代かけて 建つる孝子の碑(いしぶみ)は 学びの道の鑑(かがみ)にて 我らが里のほまれなり

三 かよわき腕の一つにて 田畑の稼ぎ薪とり 父の定省(ていせい)看護まで 朝な夕なに怠らず

四 実れる秋の月毎に 父を我田に背負い行き 垂穂ながめて侑(すす)めつる 酒こそ点の美禄なれ

六 あわれ高きは孝の徳 家の礎(いしずえ)国の本 生きたる人を栞(しおり)にて ふみ分け行かん孝の道

 

親を看護する姿は地域の誉れであり、子どもたちへと教え継がれていきます。近世・近代において理想とされた孝行は、自分の身を犠牲にしながら行なうものとされていたのです。

 

また,毎年8月には神事が行われています。霧島市のホームページの市長の活動報告から転載です。

http://www.city-kirishima.jp/hisyokouhou/shise/shichonoheya/katsudohokoku/r4/r4_08.html

 

令和4年8月10日(水曜日)

孝子の碑の前で行われた国分東・西地区自治公民館「第40回ふるさと祭り」に出席しました。新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、昨年度に引き続き、神事のみの開催となりました。この祭りは、元村長山元嘉右衛門翁と孝子長崎金左衛門翁の遺徳を偲ぶもので、今年で40回目を迎えます。偉大な先人の功に思いを馳せながら玉串を奉奠しました。

 

平成30年8月10日(金曜日)

国分東と国分西自治公民館が主催する「第36回ふるさと祭り」の孝子碑前での祭典と子ども相撲大会に出席いたしました。この孝子碑に敬慕の念を捧げる祭典は、国分発展の基礎となる様々な事業を行うとともに、舞鶴青年学舎を創設し、青少年の育成にも力を入れられた「元国分村長 山元嘉右衛門(かうえもん)翁」と、旧国分市の郷土誌に、「孝子の碑」と題した親孝行物語が掲載されている「孝子 長崎金佐衛門(きんざえもん)翁」の遺徳を偲ぶもので、ご子孫や地元関係者の皆さま、そして地元の子どもたちが一堂に会して、先人の崇高な精神をともに学び、次の世代へ、時代を超えても価値の変わらない「心」の大切を引き継いでいく、またとない機会です。このような取り組みを通じて、私たちのふるさと・霧島市の子どもたちが、心豊かに明るく成長してくれることを願っています。

 

 

鹿児島県霧島市国分府中には,「孝子田」と呼ばれる田が今に伝わっている。

明治時代、貧しい生活を送りながらも父母によく伝えた長崎金左エ門は、国から緑授褒章を受け国分村から表彰され、さらに府中の土地が贈られた,とのことで,石碑が建てられている。

 

 

広報霧島(May.2022 Vol.362)に詳しい記事がありました。ご覧ください。

https://www.city-kirishima.jp/hisyokouhou/shise/koho/kohoshi/kohokirishima/documents/202205_hp.pdf

 

 

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第7回 国分高校周辺の歴史散策

頌得碑(しょうとくひ)

 ・・・偉人や先覚者などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑。

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横にある石碑には,次のように記載されています。

 

元村長 山元嘉右衛門翁

 

政治が技術に非ずして精神なる事は,以下述ぶる所の

翁の履歴が之を証明する。明治五年国分郷に生

れた翁は俊秀の資を以て十六歳で京都同志社に

入学,後上京して早稲田専門学校に学び学成りて

帰郷,発起人となり舞鶴青年学舎を創設した。

当時村民挙って翁が有為の材に着目し公職に起用せん

事を欲したが年齢未だ弱冠にして其事を許さなかったと言

う。後其の被選挙年令に達するや否や直ちに翁を公

職に就かしめ,明治三十九年,三十四歳の壮年にして村

長に挙げられた。翁は前途種々の困難あるを予想

して一時逡巡したが,誠心誠意は凡百の困難を一変して

容易ならしむべき唯一の途なるを信じ,村民の意に

従って村長の椅子についた。

しかもこの間に成し得たる事績の数々は枚挙に暇なく

中でも国分校敷地運動問題のため自費を以て上京

し島津家に交渉して舞鶴城館跡の小学校敷地無

償譲受け,城山の買入,日清日露戦役招魂碑を

金剛寺に建設,西町下耕地整理,西町口,向花橋間

道路新設,向花並に上小川補習学校の設置,黒岡山

林の無償払下,薄追山林払下等に其の主なるもので特に

国税完納に成績を挙げ表彰せられし等は正に翁の誠意の

致す所に外ならない。諸般の業績は国分郷土の存す

る限り永久に銘記すべき功績であろう。

    国分市長 谷口義一

         有志一同

               白雲謹書

 

 

 

 

「元村長 山元嘉右衛門翁」に関しては,ネット上のデータを検索しても,第6回 孝子之碑(元村長 山元嘉右衛門翁)に書かれている程度の資料しか見当たりませんでした。

国分郷土誌などを紐解くと何かしらの記述があると思われますが,ここでは,碑に記載された文言だけで翁の功績を想像したいと思います。

 

 

 

 

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第8回 国分高校周辺の歴史散策

朱門(あかもん)

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道路脇の石碑には次のように記されています。

 

石階段を上った門の脇の立て看板には次のように記されています。

あかもん

朱門

 

国分市指定文化財

 

 指定年月日 昭和五十一年二月一日

 所在地   中央二丁目

 所有者   国分市

 

 舞鶴城内陣の門であったも

のを市内重久の細山田家の祖

先が領主島津義久公より拝領

したものと伝えられているが

記録もなくはっきりしたこと

は分からない。

 昭和三十八年、細山田家か

ら大隅国分寺跡に移転保存さ

れたが、台風のため倒壊した。

昭和五十年、国分市の市制二

十周年事業の一環として、朱

門を修復し、ゆかりの舞鶴城

に復元した。

          国分市

 

霧島市指定有形文化財(建造物)

 

あかもん

朱門

 

昭和五十一年二月一日指定

 

 国分新城(別名・国分城、舞鶴城)は、島津家

第十六代当主・島津義久が築いた城です。義久

は文禄四年(一五九五)に鹿児島から隼人の

富隈城に移ったあと、さらに慶長九年(一六〇

四)にこの城に移り、慶長十六年に没するまで

居城としました。その後、地頭仮屋が置かれ、

江戸時代の国分郷における政治的な中心地と

なりました。

 朱門は島津家から重久の細山田家が拝領し

たと伝わります。昭和三十八年(一九六三)に当

時の国分市に寄贈され、昭和五十年にゆかりの

あるこの場所に移されました。もともとは城の

敷地内部になったのではないかと考えられま

す。この門は城の様子を知ることができる貴重

な建物です。

 令和二年三月

           霧島市教育員会

 

https://www.city-kirishima.jp/bunka/kyoiku/rekishi/bunkazai/shitebunkazai/bunka-kokubu.html#5

 

霧島市のサイトから転載します。

 

5.朱門

舞鶴城は、島津義久が慶長9年(1604)隼人の富隈城から移り住んだ日常生活をする館造りの城でした。「国分諸古記」によると城は89間四方あり、その中の約50間四方が石垣に囲まれ、屋形があったようです。朱門は舞鶴城内にあったと考えられていますが、その場所ははっきりしていません。昭和50年に国分市制20周年事業の一環として修復し、ゆかりの舞鶴城の石垣前に復元されていましたが、平成18年に国分小学校のグラウンドへ移設されました。

昭和51年2月1日指定(市指定有形文化財)

 

https://kagoshimawalk.com/historic-site/post-3927/

 

鹿児島の歩き方 観光ガイド情報

このサイトも参考にしました。

 

 

Web上で見るよりも,実際の朱色の門を見ると,当時の国分城が想像されるようで,厳かにして堅牢であり,まさに歴史を感じさせるものに違いありません。実際に石橋を渡り,階段上の朱門に触れてみてください。お勧めの場所です。

 

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第9回 国分高校周辺の歴史散策

舞鶴城屋形跡

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石碑には次のように書かれています。

 

舞鶴城跡

 

 別名,国分御屋形跡(おやかたあと),

国分新城とも呼ばれている。島津義久は

慶長九年(一六〇四)富隈城から移居し

慶長十六年七十九歳で死去するまで在城

した。後に義久の三女の亀寿姫(かめじ

ゅひめ)が寛永七年(一六三〇)死去す

るまでの二十年間をこの城で過ごした。

その後この城の隣接地に地頭館(じとう

かん)がおかれ,清水,襲山(現在の重

久),敷根の各地頭館と並んで,国分郷

の政治と警備の中心として幕末に至って

いる。

 舞鶴城は山城の南麓に造営され,平時

は軍事,行政が執行されるが,戦後にな

ると城山(隼人城)に立籠ろうという方

法がとられた。築城の際,山麓一帯(現

在の市街地)も城に合わせて区割りを行

い,碁盤目のような整然とした街並みは

現在の市街地の基盤となっている。

               国分市

 

 

鹿児島観光サイト かごしまの旅

舞鶴城について書かれています。

https://www.kagoshima-kankou.com/guide/10070

 

公益社団法人霧島市観光協会

舞鶴城跡についての紹介があります。

https://kirishimakankou.com/guide/2014/01/post-177.html

 

 

舞鶴城(まいづるじょう)は,別名 国分城や国分新城とも呼ばれています。

薩摩の国,大隅の国の境に位置するという絶好の立地条件から,鹿児島城から国分城へ移転する計画が立てられたそうですが,島津斉彬公の死去により,計画は頓挫したようです。ひょっとすると,国分の街が,県庁所在地になっていたかもしれませんね。

 

国分高校の裏山にあたる部分に,国分城山公園があります。山頂近くには国分郷土館もあります。観覧車やゴーカートなどの遊具もあって,霧島市民の憩いの場であり,休みの日などには家族連れで賑わっています。春には,桜が満開になり,お花見も楽しめます。

 城山を下ると,その西に舞鶴城(国分新城)跡があります。現在では,国分小学校と国分高校の敷地になっている場所です。その,国分小学校の南側に碑や島津義久の辞世の歌碑,伊呂波歌碑(いろは歌),舞鶴城の復元図も描かれた説明掲示板,石垣の跡や堀なども残り,城門だったとされる色鮮やかな朱門も移築されています。

 

 国分郷土館の説明の中に,舞鶴城について記載があります。

 「築城に伴い義久は,家臣を京の陰陽師のもとへ派遣して造営地の善し悪しなどを占わせ,碁盤の目のような整然とした街並みを持つ城下町を造りあげました。国分の町はこの舞鶴城と街並みを基軸に,政治・経済・文化の中心として発展してきました。」

 

 島津義久は亡くなるまでこの舞鶴城で過ごしました。慶長16年(1611)に亡くなり,享年79才でした。義久は遺言で,娘の島津亀寿(しまづ かめじゅ)(島津忠恒夫人)に,ここ住むように命じ,亀寿もそれを守って死ぬまでここで暮らしたとのことです。その亀寿が亡くなったのは,寛永7年(1630),10月5日,享年60才でした。

 

島津亀寿は,鹿児島では「じめさあ」と呼ばれています。鹿児島市城山町の鹿児島市立美術館の一角(西郷隆盛像の裏手)に,「じめさあ(持明院様)」と呼ばれる石像があり,その像は,亀寿の像とみなされており,「持明院様」が鹿児島弁で転訛した「じめさあ」の名で呼ばれています。

 

「じめさあ」は1年に一回,亀寿の命日である10月5日に化粧直しを行うのが恒例となっています。現在は,鹿児島市役所の女性職員による化粧が施され,口紅と頬紅など美しい姿になられます。毎年,テレビや新聞で報道され,地元の注目を集めています。なぜお化粧をしているかというと,「器量に優れなかったが,その人柄で多くの人々に慕われた」亀寿を偲んでいると伝わっています。

 

 


国分高校周辺の歴史散策

 

国分高校は,舞鶴城跡に立地しており,旧国分市の歴史・古(いにしえ)を感じさせる地域です。

近辺の数々の歴史資料である石碑,史跡などをご紹介いたします。

 

■第10回 国分高校周辺の歴史散策

島津義久公伊呂波歌

 

国分小学校前に,石灯篭と石碑が合わせて3基あります。それぞれに義久公の歌が刻まれています。

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人のよき人のあしきをみてハわか

 身をみかくへき鏡ともせよ

 

このうち,「わか」は「わが」=「我が」,「みかく」は「みがく」=「磨く」,「へき」は「べき」の意。

(口語訳)人の良い点,人の悪い点を見て,自分自身を磨く鏡としなければならない

 

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天道はふたりの親に孝あるを

 まもるへきとのちかひとそきく

 

このうち,「へき」は「べき」,「ちかひ」は「誓い」の意。

(口語訳)天は,親孝行とは,大切にしなければならない心がけである,と聞いています。

 

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島津義久公辞世の句

世の中の 米と水とをくみ尽くし

  つくしてのちは 天つ大空

 

有名すぎる義久の辞世の句です。

「世の中の米と水とを飲み尽くし 尽くして後は天津大空」

と,紹介している書籍もあるようです。

 

(口語訳)「世の中のあらゆる事を経験し尽くして,その後の心境は,澄み切った大空のようである。

(そのように思い残すことはない。)」 というような意。

 

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国分小学校の立派な校門 左右に石灯篭があります。城壁の石壁も見事です。

 


以上,第1回から第10回まで,学校周辺の歴史散策として連載いたしました。
(令和4年度 教頭 堂薗)