創設の経緯

公開日 2018年04月01日

[創設の経緯] [沿革] [歴代校長]


 本校の創設者は,山形県出身の全盲の青年,南雲 總次郎氏である。氏は16歳のとき,友人が誤って発砲した猟銃の散弾を顔面に受けて失明した。米沢で鍼灸の技術を身に付けたがそれに飽き足らず,単身上京して東京盲啞学校に学んだ。明治33年3月卒業の予定を繰り上げ,前年の32年12月,求めに応じて鹿児島伝春病院のマッサージ師として着任した。「今度東京からやって来たマッサージ師は,盲人でも読める点字という便利なものを知っているそうだ。」という評判がたって,次々に盲人が氏のもとを訪れ,教えを請うた。はじめは院長の了解を得て,勤務のかたわら講習会を開いたが,点字は勿論であるがマッサージの技術も教えてほしいという希望が多かった。
 恩師から「鹿児島に行ったら,盲人の教育,指導もやってほしい。」と言われていたことでもあり,勤務しながらの指導では徹底もしないし,病院にも迷惑をかけることになると判断し,退職して盲学校を設立する決意を固めた。
 財産などない氏は,弱視生の門弟を道案内に,一面識もない鹿児島市内の有志の家を歴訪し,苦心を重ねて何とか設立資金を調達できた。
 山之口町にある民家を借り,私立の「鹿児島慈恵盲啞学校」の看板を掲げ,職員4名,生徒8名(盲部5名,聾啞部3名)で開校式を挙行した。時に明治36年2月2日。これが本校の前身である(以来この日を創立記念日として,記念式典と記念行事を催している)。初代校長南雲總次郎氏はこのとき25歳であった。
 当時は障害者に対する認識が低く,障害者教育に対する理解もほとんどなかったために,発足はしたものの,学校の維持費を捻出するための苦労はその後も長く続き,寄附募集,慈善演芸会,慈善商という日用雑貨の販売など,種々の方法で調達に奔走したが,校舎の家賃すら払えず,一時閉鎖に追い込まれたり,移転するなど困難な日々の連続であった。
 開校以来19年,経営に苦労した甲斐があって,やっと学校の基礎も固まった大正10年4月,南雲氏は一身上の都合で退職し,父の移転先の北海道に渡り,翌大正11年には旭川盲啞学校を創設し,初代校長として昭和29年までの33年間校長を務めた。
 昭和56年2月2日。卒業生,保護者,旧・現職員,その他有志の浄財によって,本校の校庭に,「亡師亡友慰霊の碑」(碑文は点字)とともに「南雲總次郎先生顕彰之碑」が建立され,除幕式が挙行された。

記念碑
南雲 總次郎先生顕彰の碑 亡師亡友慰霊の碑

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