創設の経緯

公開日 2026年04月17日

[創設の経緯] [沿革] [歴代校長]


 本校の創設者は、山形県出身の全盲の青年、南雲 總次郎氏である。氏は16歳のとき、友人が誤って発砲した猟銃の散弾を顔面に受けて失明した。米沢で鍼灸の技術を身に付けたがそれに飽き足らず、単身上京して東京盲啞学校に学んだ。明治33年3月卒業の予定を繰り上げ、前年の32年12月、求めに応じて鹿児島伝春病院のマッサージ師として着任した。「今度東京からやって来たマッサージ師は、盲人でも読める点字という便利なものを知っているそうだ。」という評判がたって、次々に盲人が氏のもとを訪れ、教えを請うた。はじめは院長の了解を得て、勤務のかたわら講習会を開いたが、点字は勿論であるがマッサージの技術も教えてほしいという希望が多かった。
 恩師から「鹿児島に行ったら、盲人の教育、指導もやってほしい。」と言われていたことでもあり、勤務しながらの指導では徹底もしないし、病院にも迷惑をかけることになると判断し、退職して盲学校を設立する決意を固めた。
 財産などない氏は、弱視生の門弟を道案内に、一面識もない鹿児島市内の有志の家を歴訪し、苦心を重ねて何とか設立資金を調達できた。
 山之口町にある民家を借り、私立の「鹿児島慈恵盲啞学校」の看板を掲げ、職員4名、生徒8名(盲部5名、聾啞部3名)で開校式を挙行した。時に明治36年2月2日。これが本校の前身である(以来この日を創立記念日として、記念式典と記念行事を催している)。初代校長南雲總次郎氏はこのとき25歳であった。
 当時は障害者に対する認識が低く、障害者教育に対する理解もほとんどなかったために、発足はしたものの、学校の維持費を捻出するための苦労はその後も長く続き、寄附募集、慈善演芸会、慈善商という日用雑貨の販売など、種々の方法で調達に奔走したが、校舎の家賃すら払えず、一時閉鎖に追い込まれたり、移転するなど困難な日々の連続であった。
 開校以来19年、経営に苦労した甲斐があって、やっと学校の基礎も固まった大正10年4月、南雲氏は一身上の都合で退職し、父の移転先の北海道に渡り、翌大正11年には旭川盲啞学校を創設し、初代校長として昭和29年までの33年間校長を務めた。
 昭和56年2月2日。卒業生、保護者、旧・現職員、その他有志の浄財によって、本校の校庭に、「亡師亡友慰霊の碑」(碑文は点字)とともに「南雲總次郎先生顕彰之碑」が建立され、除幕式が挙行された。

記念碑
南雲 總次郎先生顕彰の碑 亡師亡友慰霊の碑

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